市指定文化財
概要
市内に所在する市指定文化財を紹介します。
内容
市内には市指定の文化財が55件あります。
種別 | 種類 | 名称 | 所在地 |
---|---|---|---|
有形文化財 | 建造物 | 諏訪神社本殿 | 川田谷 (諏訪神社) |
有形文化財 | 建造物 | 泉福寺の山門並びに石像仁王像 | 川田谷 (泉福寺) |
有形文化財 | 建造物 | 矢部家住宅 | 寿 |
有形文化財 | 建造物 | 旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場建物 | 川田谷 |
有形文化財 | 彫刻 | 木造十一面観音菩薩立像並びに脇侍像 | 川田谷(新御堂) |
有形文化財 | 工芸品 | 泉福寺の銅製釣灯籠 | 川田谷 (泉福寺) |
有形文化財 | 古文書 | 旧小針領家村松川家文書 | 小針領家 |
有形文化財 | 古文書 | 旧上加納村本木家文書 | 加納 |
有形文化財 | 古文書 | 旧篠津村滝沢家文書 | 篠津 |
有形文化財 | 古文書 | 旧五町台村渋谷家文書 | 五丁台 |
有形文化財 | 古文書 | 旧倉田村荒井家文書 | 倉田 |
有形文化財 | 古文書 | 旧倉田村明星院領星野家文書 | 倉田 |
有形文化財 | 古文書 | 岩田家文書 | 川田谷 |
有形文化財 | 古文書 | 栗原家文書 | 上日出谷 |
有形文化財 | 古文書 | 増田家文書 | 舎人新田 |
有形文化財 | 考古資料 | 氷川神社裏古墳出土品 | 桶川市歴史民俗資料館 |
有形文化財 | 考古資料 | 高井遺跡縄文時代出土品 | 桶川市歴史民俗資料館 |
有形文化財 | 考古資料 | 宮ノ脇遺跡出土の和銅銭「富壽神寳」 | 桶川市歴史民俗資料館 |
有形文化財 | 歴史資料 | 天満神社の木製の額 | 加納 (加納天神社) |
有形文化財 | 歴史資料 | 桶川宿商家店先絵馬 | 寿 |
有形文化財 | 歴史資料 | 紅花商人寄進の石燈籠二基 | 寿 (稲荷神社) |
有形文化財 | 歴史資料 | 川辺の板石塔婆 | 加納 |
有形文化財 | 歴史資料 | 鷹場の高札 | 加納 |
有形文化財 | 歴史資料 | 桶川宿古絵図 | 桶川市歴史民俗資料館 |
民俗文化財 | 有形民俗 | 稲荷神社の力石 | 寿 (稲荷神社) |
民俗文化財 | 有形民俗 | 天神道の道しるべ | 加納 |
民俗文化財 | 有形民俗 | 松山以奈り道の道しるべ | 西 |
民俗文化財 | 有形民俗 | 樋詰の道しるべ | 川田谷 (樋詰氷川神社) |
民俗文化財 | 有形民俗 | 名号塔兼ねた道しるべ | 加納 |
民俗文化財 | 有形民俗 | 小針領家のささら獅子舞用具一式 | 小針領家 (氷川諏訪神社) |
民俗文化財 | 有形民俗 | 前領家矢部家山王社の奉納絵馬等 | 川田谷 |
民俗文化財 | 有形民俗 | 下日出谷の神楽・芝居用具 | 下日出谷 |
民俗文化財 | 有形民俗 | 榮町山車人形「関羽」像 | 寿 |
民俗文化財 | 有形民俗 | 八雲山車人形「神武天皇」像 | 南 |
民俗文化財 | 有形民俗 | 足立坂東観音霊場参詣大絵馬(文化三年) | 川田谷 |
民俗文化財 | 無形民俗 | 三田原のささら獅子舞 | 川田谷 (三田原氷川神社) |
民俗文化財 | 無形民俗 | 前領家のささら獅子舞 | 川田谷 (王子稲荷センター) |
民俗文化財 | 無形民俗 | 松原のささら獅子舞 | 川田谷 (松原八幡神社) |
民俗文化財 | 無形民俗 | 下日出谷の餅つき踊り | 下日出谷 (日出谷氷川神社) |
民俗文化財 | 無形民俗 | 下日出谷の囃子 | 下日出谷 (日出谷氷川神社) |
民俗文化財 | 無形民俗 | 倉田の囃子 | 倉田 (倉田氷川神社) |
民俗文化財 | 無形民俗 | 麦ボーチ唄 | 川田谷 |
民俗文化財 | 無形民俗 | 川田谷・下日出谷の万作 | 川田谷・下日出谷 |
民俗文化財 | 無形民俗 | 小針領家のささら獅子舞 | 小針領家 (氷川諏訪神社) |
記念物 | 史跡 | 木戸跡(下) | 東 |
記念物 | 史跡 | 木戸跡(上) | 北 |
記念物 | 史跡 | 原山古墳群 | 川田谷 |
記念物 | 史跡 | 高井遺跡住居址 | 下日出谷 |
記念物 | 史跡 | 加納城跡 | 加納 |
記念物 | 史跡 | 後谷遺跡 | 赤堀 |
記念物 | 天然記念物 | シイガシ | 五丁台 |
記念物 | 天然記念物 | 多気比売神社の大シイ | 篠津 (多気比売神社) |
記念物 | 天然記念物 | ムクロジ | 坂田 |
記念物 | 天然記念物 | 普門寺のしだれ桜 | 川田谷 (普門寺) |
記念物 | 旧跡 | 伝足立右馬允遠元館跡 | 末広 |
諏訪神社本殿(有形文化財・建造物)
諏訪神社本殿と身舎の彫刻
諏訪神社は、江戸時代には譜代大名牧野家の所領であった旧石戸領(現在の上尾市北西部から鴻巣市南西部にかけての一帯)五千石の総鎮守として信仰される神社でした。天正19年(1591)には社領として三石拝領の朱印状を受けた記録が「新編武蔵風土記稿」に見ることができます。これにより、諏訪神社は天正19年以前の創建であることがわかります。
諏訪神社本殿は、一間社流造(いっけんしゃながれづくり)という造り方です。身舎(もや)と呼ばれる社殿の主体部分の長さは一間(6尺=約1.82メートル)で、屋根は杮葺(こけらぶき)と呼ばれる薄い板を葺いたものです。身舎は、唐獅子、牡丹、牛若丸などさまざまな彫刻 と複雑な組物で隙間なく飾られ、見る人の目を楽しませてくれます。かつては色彩が施されていたと思われますが、現在は残っていません。
造られた年代については、棟札(むなふだ)が発見されていないため確定はできません。しかし、社殿細部に施された建築様式や発見された関連資料などから、19世紀中頃の建築であると推測されます。また、大工は地元の棟梁・新井家が深く係わっていると考えられています。
泉福寺の山門並びに石造仁王像(有形文化財・建造物)
東叡山勅願院円頓房泉福寺は、天長6年(829)淳和天皇の勅願により慈覚大師が開山したと伝えられる天台宗の名刹です。重要文化財の木造阿弥陀如来坐像や市指定文化財の銅製釣灯籠も所在しています。
泉福寺山門
荒川に面した泉福寺の入り口に、古の風格漂う山門がたたずんでいます。この山門は元禄8年(1695)年竣工で、泉福寺に現存する伽藍の中で最古の建造物であるほか、市内に現存する山門でも最古のものです。
ここに安置される石造仁王像は寛文2年(1662)のもので、山門より30年ほど早く造られています。第二十三世尊清法印が大蔵院長清、高橋大膳を本願として、近隣の村の奉加のもと造立しました。奉加の村々は桶川、北本、上尾、川島、吉見、東松山、川越、岩槻にまで及んでいます。石造の仁王像は埼玉県内でもたいへん珍しいものです。
泉福寺山門は、宗教的建造物としてだけではなく、石造仁王像からもわかるとおり、泉福寺と地域の結びつきを示す資料でもあり、民俗的視点からも重要な文化財です。
矢部家住宅(有形文化財・建造物)
矢部家住宅店蔵
矢部家は屋号を「木半」(木嶋屋半七)といい、主には穀物問屋を営んでいました。また紅花の商いも行い、桶川稲荷神社境内に残る「紅花商人寄進の石燈籠」(市指定文化財)に刻まれた24人の紅花商人の中にも、「木嶋屋淺五郎」とその名が刻まれています。
現存する建物の中で最古のものは中山道から最も奥に位置する土蔵造りの文庫蔵で、棟札から明治17年の建立であることがわかります。この土蔵は、屋根の鬼瓦の上から鋳鉄製の棘状の棟飾りが出ているのが特徴です。これは「烏」または「烏おどし」とも呼ばれ、鳥よけと言われています。
中山道に面した土蔵造りの店蔵は、矢部家第六代当主の五三郎氏(安政4年~大正9年)が明治38年に建てたものです。桁行5間、梁間3間、黒漆喰塗りの重厚な構えで、棟札には川越の「亀屋」(重要文化財)建築などに係わりの深い大工や左官の他、地元の大工、鳶が名を連ねています。
桶川宿で現存する土蔵造りの店蔵はこの矢部家一軒のみとなりましたが、往時の桶川宿の繁栄と賑わいをしのぶことのできる貴重な建造物のひとつです。
※矢部家住宅は、外観は中山道からご覧いただけますが、内部を一般公開しているものではありません。ご見学の際は、ご配慮をお願いいたします。
旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場建物(有形文化財・建造物)
旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場 兵舎棟
旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場は、昭和12年(1937)6月に開校しました。ここでは、少年飛行兵や特別操縦見習士官など、およそ1500~1600名が飛行技術の教育を受けました。昭和20年(1945)2月、桶川分教場は閉鎖されますが、その後は、特攻隊の訓練が行われるようになり、昭和20年4月には12名の特攻隊員を鹿児島県の知覧基地へ送り出すこととなりました。戦後、桶川分教場の建物は引揚者等の寮として使われ、多くの方がここで暮らしました。
指定された建物は、現存する兵舎棟、守衛棟、車庫棟、便所棟、弾薬庫の5棟です。建物の小屋組にはキングポストトラスという、当時あまり一般的ではなかった洋小屋の建築技法が使われています。また、平面の寸法にメートル法が採用される一方、立面の寸法には尺貫法を用いるなど、和洋の単位が折衷されているという特徴もあります。 当時の陸軍飛行学校の建物が残っている、全国でも希少な遺構です。
現在は、桶川飛行学校平和祈念館として、一般公開しています。
木造十一面観音菩薩立像並びに脇侍像(有形文化財・彫刻)
川田谷の薬師堂地区にある「新御堂」の仏像で、十一面観音菩薩を中尊に、左に毘沙門天、右に不動明王を配した三尊像です。
中尊は、全国的に見てもとても珍しい四本の腕を持つ十一面観音で、高さ103.3センチメートル、寄木造(多くの木を寄せ集めて作る技法)で漆箔(漆を塗った上に金箔を貼り付ける技法)が施されています。優美でとても上品な「藤原様式」を示す平安時代末頃の美作です。作者は不明ですが、非常に優れた仏師の手によるものと考えられます。(ただし頭部のみが江戸時代以降に付け替えられてしまっています。)
両脇侍の不動明王像、毘沙門天像もともに立像で、寄木造、玉眼(眼に水晶をはめ込む技法)、彩色(色を付けること)からなり、高さは不動明王56.5センチメートル、毘沙門天59.3センチメートルです。写実的で生き生きとした作風は運慶に始まる慶派の特色を受け継ぐもので、鎌倉時代末から南北朝時代頃の作です。毘沙門天像の像内頭部には「應円」と「隆円房」と読める墨書きがあり、両像を彫った仏師の名と考えられます。
優れた仏師たちが手掛けたと思われるこれらの仏像が桶川の地に残されていることには大きな意味があり、川田谷の歴史をひもとく上では欠かせない仏像です。今も薬師堂地区の人々の信仰の拠り所として大切にされています。
木造毘沙門天立像
木造十一面観音菩薩立像
木造不動明王立像
泉福寺の銅製釣灯籠(有形文化財・工芸品)
銅製釣灯籠
泉福寺に伝来する六角の釣灯籠です。笠の上面に陰刻された銘文から正保三年(1646)7月7日に泉福寺阿弥陀堂の灯籠として法印廣海により寄進されたものであることがわかります。
この灯籠には火中した痕跡があり、火袋扉の部分が失われていますが、制作当初の姿をよく遺していると思われます。素朴ですが端正な造りで、中世の質実尚武の気風をとどめています。鍋や釜などの日用雑器を造るような実用的で飾り気のない鋳造技術から、地元の鋳物師が製作したものと考えられます。本来は一対あったものと思われますが、現存するものは一基のみです。
旧小針領家村松川家文書(有形文化財・古文書)
「小針領家」という地名は平安時代の荘園のゆかりの地名で、小針は小さい荘園ということです。平安時代の開発を示す村名であると考えられます。小針領家村は、元禄11年(1698)に小針領家村上分と下分に分かれ、明治期に再び小針領家村に戻りました。
この文書は、小針領家村上分の名主家の一つであった松川家に伝わるものです。小針領家は綾瀬川の源流があり、かつてはこの排水に関して非常な不便があった地域でした。松川家に残る文書では、元禄7年(1694)の地検改正に係わるものが最も古く、その他、安永2年(1773)を始めとする綾瀬川排水関係のものが多くを占めます。また、文政7年(1823)の「備前堤一件」の文書は、当時の伊奈氏によって築かれた備前堤を巡って起きた治水に関する争いや訴訟の記録をとどめるものとして貴重です。
旧上加納村本木家文書(有形文化財・古文書)
旧上加納村の本木家は、近世においては長年にわたり名主役を仰せつかっていました。そのため「お上」からの触書や村政などに関連する文書が多く所蔵されてきました。
その内容は、老中から代官各位に発せられた『條々』などの「支配」に関するもの、検地帳などの「土地」に関するもの、年貢など「貢租」に関するもの、「村況」に関するもの、農民仲間の法度覚や境界争いなどの「村政」に関するもの、縁組などの「戸口」に関するもの、備前堤をめぐる争いについてなどが記された「治水用水」に関するもの、『田畠改御差出帳』などの「農業」に関するもの、桶川宿の助郷についてのなどの「交通」に関するもの、『質地証文』などの「金融」に関するもの、加納天神の縁起についてなどの「寺社」に関するもの、本木家の私信などの「家」に関するものや、その他「雑」のものと多岐にわたります。
いずれも当時の村民の生活をつぶさに知る上で大変貴重な史料といえます。
※現在は歴史民俗資料館に寄託されています。
旧篠津村滝沢家文書(有形文化財・古文書)
旧篠津村は桶川市の北端に位置します。天正年間に幕府直轄領、正徳2年(1712)には川越藩領、そして天保14年(1843)には再び幕府直轄領となり、明治維新を迎えました。旧篠津村滝沢家文書は、この間に名主を勤めた滝沢家に伝来するものです。
寛永14年(1707)から文久2年(1861)までの年貢関係文書は特に重要なものです。
※現在は歴史民俗資料館に寄託されています。
旧五町台村渋谷家文書(有形文化財・古文書)
旧五丁台村は桶川市の東北部にあたり、東は蓮田市及び元荒川を隔てて菖蒲町(現久喜市菖蒲町)に接します。近世資料によれば家数33戸で、水害干害が多く、篠津村と同じような環境にあったといいます。
近世は、天正年間に幕府直轄領、元禄11年(1698)に酒井式部の知行地となり、酒井家の代々を経て明治を迎えます。渋谷家文書は、この間に村の名主を勤めた渋谷家に保管されていたものです。
特筆すべきものとして、安永6年(1777)より寛政3年(1791)ころまでの質屋渡世1人に関する文書で、これは桶川市内では初出のものです。また、寛政9年(1797)から天保9年(1838)までの間に煮売商人5人の記録もあり、近世農村の貴重な記録といえます。
旧倉田村明星院領星野家文書(有形文化財・古文書)
旧倉田村の五大山明星院與願寺は、新義真言宗の名刹として知られ、江戸時代初期には同宗派の関東新義真言宗寺院取締、触頭を勤めています。明星院は、寺領十石に加え、無量寺領として六十石を併せて支配しました。
旧倉田村明星院領星野家文書は、明星院領の名主を勤めた星野家に伝わるもので、市内では数少ない寺社領名主家の文書として貴重な史料です。
岩田家文書(有形文化財・古文書)
上川田谷村の岩田家は代々牧野成房家の名主を勤め、名字帯刀を許された家柄でした。幕末には役金三両、3人扶持の「在役」を命じられ、支配地村々の取締に当たりました。
岩田家文書は、江戸時代後期から幕末に掛けての文書が中心です。文書内容としては、租税関係の文書など通常の名主文書が中心ですが、「在役」を勤めた関係文書も見られます。最も古い文書は、享保18年(1873)丑9月24日の「御触並書付抜書」です。
特筆するものとして、明和一揆関係文書が挙げられます。明和4年3月の「強勢人一件諸書物控 弐」は、明和元年(1764)閏12月から翌2年1月に掛けて幕府の中山道助郷役拡大に反対して蜂起した農民一揆である明和伝馬騒動に関する記録で、在郷有力商人であった川田谷村名主高橋甚左衛門が襲撃された一件について、その後の取り調べの状況を史料に基づいてまとめたものであり、極めて貴重な史料です。
※現在は歴史民俗資料館に寄託されています。
栗原家文書(有形文化財・古文書)
上日出谷村は、慶安3年(1650)に石戸領が3分家に分割知行されることになった際、牧野信成の六男・牧野永成の支配地に属し、幕末まで続きました。栗原家は、江戸初期の慶長年間頃から足立郡(上)日出谷村の地にあって、村の草分けとして代々名主を勤めた家柄でした。
文書は近世文書と近代文書に分けられます。近世文書は江戸時代後半のものが多く、文書の内容は村政全般にわたっています。特色あるものとしては、万延元年(1860)鴻巣宿の薩摩芋問屋と近隣の村々との間で争われた薩摩芋の取引争論に関する文書群や、文久元年(1861)の和宮御下向に関する文書等を挙げることが出来ます。
また、近代文書の中には、明治12年に起こった上・下日出谷村の合併問題に関する資料、さらに維新以後も明治期から大正期に掛けて薩摩芋の栽培と出荷が盛んであったことを物語る甘藷引合帳が多数残されています。
※現在は歴史民俗資料館に寄託されています。
増田家文書(有形文化財・古文書)
舎人新田は、古くは坂田村護摩堂寺の沼で「護摩堂沼」と称されていましたが、元和年中(1615~1624)に加納村の舎人という者が開発し新田としたので、この名が付いたといいます(新編武蔵風土記稿)。しかし、当初は戸数も少なかったので、親村である上加納村の名主本木家が名主を兼務していたと伝えられています。増田家は、舎人新田村が加納村から分村した後、代々名主を勤めていたとのことですが、名主拝命の時期は定かではありません。
増田家文書は、近世文書が中心の文書群です。このうち注目されるのは、租税関係資料(写し)で、寛永18年(1639)から享保20年(1735)までの97年間にわたる舎人新田の年貢割付状をまとめた簿冊があります。これは、明治16年(1882)に旧上加納村名主本木家の本木多蔵が舎人新田村戸長増田當太郎宛に差し遣わしたもので、この簿冊の原本である年貢割付状が前述の本木家文書(市指定文化財)の中に残っています。
この時期以後、本木家文書の中に舎人新田関係の文書が全く無くなっているので、名主引継の時期はこの頃とも推測されます。
この他、戸口関係資料や綾瀬川、赤堀川、元荒川などの水利・土木関係資料等もあり、貴重な文書群といえます。
※現在は歴史民俗資料館に寄託されています。
氷川神社裏古墳出土品(有形文化財・考古資料)
氷川神社裏古墳は、直径約19m 、高さ約1mの円墳で、墳丘を囲む浅い周溝も合わせると直径約25mになります。日出谷地区で確認されている唯一の古墳です。
南側に開口する横穴式石室が発見されており、石室は凝灰岩の切石により構築されています。これは複室構造切石積石室と呼ばれる桶川市域で特徴的な構造の石室です。
氷川神社裏古墳から出土した遺物のうち市指定文化財となっているのは、古墳の石室及び「墓道」と呼ばれる石室入口付近から見つかった鉄製品17点と須恵器5点です。
古墳石室(手前の溝が「墓道」)
馬具(轡の部分)
須恵器
鉄製品では馬具(鋏具・飾金具・釣金具)、太刀、刀装具、刀子、鉄鏃、不明鉄製品が発見され、馬具と武器の良好なセット関係として特筆されす。
須恵器は平瓶、長頸瓶、台付埦、フラスコ瓶が出土しています。これらは出土位置から墓道に置かれたものであり、瓶類を中心にした副葬品と考えられます。
これらの出土品から 、氷川神社裏古墳は7世紀前半代の築造と考えられます。出土品個々の歴史性・希少性もさることながら、荒川左岸の古墳時代終末期の様相を知ることのできる貴重な資料といえます。
宮ノ脇遺跡出土の和銅銭「富壽神寳」(有形文化財・考古資料)
宮ノ脇遺跡出土の富壽神寳
和銅元年(708年)から応和3年(963年)にかけて日本で鋳造された和銅銭「皇朝十二銭」のうちのひとつ「富壽神寶」です。鋳造は9世紀の弘仁9年(818年)に始まりました。これは、昭和61年から62年にかけて行われた宮ノ脇遺跡第2次発掘調査で出土したもので、保存状態は極めて良好です。埼玉県内での発掘調査出土例はわずかしかなく、希少性からみても大変貴重です。
宮ノ脇遺跡は縄文時代から中世までの複合遺跡です。特に8世紀代の奈良時代を中心とした製鉄関連遺構は特筆に値し、製鉄から加工までの工程を行なえる遺構の出土とその完成度の高さは、律令期当初からの中央権力の強い関与をうかがわせる第一級の資料で、地域の政治や経済において重要な役割を持った集落であったことが分かります。「富壽神寶」が出土した遺構は9世紀前半の平安時代のものであり、製鉄のムラという機能は変質していましたが、綾瀬川・元荒川に近接し物流の拠点と考えられる立地にあることや、8世紀から継続する大規模集落であるということから、宮ノ脇遺跡は、地域において変わらぬ重要性を有していたと考えられます。「富壽神寶」は、このような集落から出土したという点において、古代東国における中央政府とのかかわりや、地域における社会経済の在り方を考える上で重要な資料といえます。
天満神社の木製の額(有形文化財・歴史資料)
桶川市加納にある氷川天満神社の「天満宮」と記された木製の社号額です。これは、梵語学者としても知られる音利房盛典が、加納の光照寺で修行中であった元禄元年(1688)に奉納したものです。表面は黒漆を塗り、縁を朱塗りにし、中央の「天満宮」の文字は金色に塗られています。裏には「江戸愛宕真福寺一代日向所生超然房性遍法印自筆 元禄元年辰十一月吉日 武州足立郡鴻巣内加納村願主 釈盛典敬白」と墨書されています。
かつては拝殿か鳥居に掲げられていたと考えられますが、現在は取り外され別に保管されています。
天満神社の社号額(表)
天満神社の社号額(裏)
桶川宿商家店先絵馬(有形文化財・歴史資料)
桶川宿商家店先絵馬
桶川宿の商家店先を描いたこの絵馬は、文久3年(1863)に、上州館林の米屋勝右衛門と近江商人である小泉栄助、利七が、桶川宿商人小高家(布庄)の稲荷神社に奉納したものです。絵師は、錦絵の北尾系を継ぐ渓斎北尾重光です。
絵馬に描かれている、袖蔵前の馬の周りに積まれた荷駄は、「桶川臙脂」の名で全国に知られた紅花であると考えられています。商売繁盛を願って奉納されたこの絵馬からは、当時の商家の賑わいを知ることができます。また、上州や近江の商人が奉納していることから、当時の桶川宿の商人が、広範囲に活躍していたこともうかがい知ることができます。
現在、この絵馬は歴史民俗資料館に寄託されていますが、絵馬が奉納された稲荷神社は、現在も小高家で大切に祭られています。
紅花商人寄進の石燈籠(有形文化財・歴史資料)
かつて中山道の宿場町だった桶川宿は、染物や紅の原料となる紅花の集散地としても栄え、多くの紅花商人たちが活躍しました。寿の稲荷神社拝殿の正面にある一対の大きな石燈籠は、桶川宿及び周辺の紅花商人たちによって、安政4年(1857年)に寄進されました。当初は、かつて桶川宿にあった南蔵院という修験道の寺の不動堂へ寄進されたものでしたが、明治2年(1869年)に南蔵院が廃寺になったことに伴い、その持分であった稲荷神社の現在の場所に移されました。
燈籠には、寄進をした24人の紅花商人の名が刻まれています。桶川宿のほか、上尾や菖蒲の商人の名前もあります。かつての紅花商人たちの繁栄を伝える貴重な文化財です。
石燈籠
紅花商人たちの名前
川辺の板石塔婆(有形文化財・歴史資料)
川辺の板石塔婆
板石塔婆は、鎌倉時代初頭から江戸時代初頭までの間に日本全国で造られた石製の供養塔婆です。その多くは死者に対する供養や極楽浄土への往生を願って建てられました。埼玉県は板石塔婆が多いことで知られ、桶川市内にも数多く現存しています。市内では川田谷地区や加納地区に多く所在し、特に荒川や元荒川などの川沿いに多く分布しています。
この川辺の板石塔婆は、文永8年(1271)の造立で市内最古のものです。高さは3.7メートルあり、県内では7番目の大きさです。塔婆の上部には阿弥陀如来を意味する梵字(これを「種子[しゅじ]」と呼びます)が薬研彫りで刻まれています。
鷹場の高札(有形文化財・歴史資料)
鷹場の高札
この高札は、旧下加納村の廿楽家に伝えられていたものです。これは、紀州家鷹場に付属する御留場に関する制札です。
高札には享保6年(1721)の紀年があり、鉄砲を撃つこと、御留場において鳥を捕らえることを禁止し、禁制を破る者を捕らえたり見つけたりした者は申し出るようにとのお達しが記されています。
高札の最後に「但馬」の名が記されていますが、 この地は一時川越藩領となった時期があり、「但馬」とは川越城主である秋元但馬守を指すと考えられています。
※現在は歴史民俗資料館に寄託されています。
桶川宿古絵図(有形文化財・歴史資料)
桶川宿古絵図
桶川町の中心となる中山道沿いの宿場(桶川宿)を中心に描き、住民や寺社はもとより、周辺の状況も克明に描き込んだ絵図です。縦187センチメートル、横176センチメートルの大きさがあり、現在までに確認されている桶川町の絵図としては最大のものです。
絵図は色分けされており、茶色が道路、白が水路、緑が山林原野となっています。画面中央には中山道が大きく描かれ、宿場の両端には「木戸」が描かれています。また、宿場の中央には「御高札」と書かれ、高札場の位置が確認できます。また、この絵図には桶川の祇園祭の発祥となった「市神」がまだ描かれていません。
この絵図が作られた年代は、記載された人名などの検討から、天和3年(1683)から享保7年(1722)の間と推定されます。作成の目的については、絵図の内容から検地と境界確認の二つが想定されます。桶川宿は元禄7年(1694)に代官細井九左衛門によって検地が実施され、この絵図にも土地の名請人とみられる人名が多数記載されています。また、検地に参加した幕府役人が残した検地日記(「上尾市史」第3巻参照)に出てくる記述などからも、元禄検地に関連して作成された可能性が高いと考えられます。
近世社会が確立される17世紀後半の元禄期頃の桶川宿の状況を極めて詳細に描いた絵図であり、とても貴重な歴史資料です。
稲荷神社の力石(有形民俗文化財)
稲荷神社の力石
力石は、若者などが持ち上げて力比べなどをした大きな石です。稲荷神社の力石は、長さ1.25メートル、幅0.67メートルで、厚さ0.4メートルの雫のような形状の楕円形で、力石の中でもとても大きなものです。
表面には「大磐石」の文字と、嘉永5年(1852)2月、岩槻の三ノ宮卯之助がこれを持ち上げたことが記されています。続いて、世話人となった当時の桶川宿の有力商人たちの名や石工の名が刻まれています。
三ノ宮卯之助(1807~1854)は、旧岩槻藩三野宮村(現越谷市)出身で、江戸へ出て勧進相撲をつとめ、江戸一番の力持ちと評判の力士でした。三ノ宮卯之助の名が残る力石は、埼玉県内の他、千葉や神奈川、遠くは長野や兵庫でも確認されています。
三ノ宮卯之助がこの力石を持ち上げた嘉永5年2月は、稲荷神社の大祭と考えられます。卯之助の怪力ぶりに、集まった観衆はさぞかし驚き、拍手喝采を送ったことでしょう。
天神道の道しるべ(有形民俗文化財)
天神道の道しるべ(移設後)
これは、氷川天満神社(以下、加納天神。)への道しるべで、嘉永2年(1849)8月に下加納村名主本木勘太夫と桶川宿八百屋宗吉によって建てられたものです。
道しるべの正面には「天神道」、右側面には「天神十一丁十一間」(約1,200メートル)の文字と、天神の方向を指す手のレリーフが刻まれており、加納天神への道のりを教えてくれています。平成24年までは、この道しるべにしたがって歩けば加納天神へたどりつくことができましたが、その後、圏央道桶川加納ICができることに伴い、元の場所から60メートルほど南へ移設されました。本来の役は果たせなくなりましたが、手のレリーフが指差す方向には、加納天神が鎮座しています。
加納天神は江戸時代の頃から広く名の知れた神社で、多くの参拝者がありました。 境内の井戸水を用いた薬湯は諸病に効くと有名で、中山道を行きかう旅人も、ここへ寄って旅の疲れを癒したといいます。この井戸は現在でも残っています。また、梵語学者盛典が奉納した木製額(市指定文化財)があります。
松山以奈り道の道しるべ(有形民俗文化財)
松山以奈り道の道しるべ
この道しるべは、東松山市にある箭弓稲荷神社への道を示すもので、中山道桶川宿の北のはずれから分岐していた「松山道」の入り口に、天保7年(1836)3月に建てられたものです。松山道は、桶川宿の上の木戸付近から西に折れて、下石戸村(現北本市内)を過ぎ、荒川の渡しを経て松山に通じていました。
箭弓稲荷神社は、江戸時代中期頃から、商売繁盛や厄除けの神様として広く庶民に信仰され、各地の稲荷講を始めとした多くの参拝者でたいへんにぎわっていました。
江戸時代、当時100万人都市江戸の食糧流通の拠点として、神田多町の青物市場と日本橋小田原町の魚市場が整備されていきました。この道しるべは、日本橋本小田原町の魚市場の人々が箭弓稲荷神社への参拝の目印として建てたといわれています。これを物語るかのように、この道しるべには「松山以奈り道(魚)本小田原町」と刻まれています。「以奈り」とは「稲荷」の当て字で、魚の字が図案化されたとてもユニークな道しるべです。
樋詰の道しるべ(有形民俗文化財)
樋詰の道しるべ
川田谷の樋詰氷川神社鳥居の傍らにこの道しるべがあります。高さ40センチメートルほどの小さな道しるべです。
明和8年(1771)に建てられ、正面には「あきは道」「大宮道」とあります。「あきは」は火災除け、盗難除けの神様として信仰を集めた指扇村(現さいたま市)の秋葉神社です。正面向かって右側面には「かうのす道」、左側面には「太郎ヱ門舟渡」と刻まれています。「太郎ヱ門舟渡」は、現在の県道川越栗橋線の太郎右衛門橋付近にあった荒川の渡し場のことです。
樋詰氷川神社の前の道は、江戸時代には中山道の脇道として重要な役割を果たしており、渡河の主要交通路の一つであったことがうかがえます。
名号塔兼ねた道しるべ(有形民俗文化財)
名号塔兼ねた道しるべ
「南無阿弥陀仏」という名号を唱えることによって極楽浄土に往生できるという庶民の信仰を伝えるのが「名号塔」と呼ばれる石塔です。
これは名号塔を兼ねた道しるべで、享保3年(1718)に建てられました。正面中央には「南無阿弥陀佛」と刻まれ、その両脇に、鴻巣市の勝願寺を示す「こうのす道」と、吉見町の安楽寺(吉見観音)を示す「よしミ道」が刻まれています。右側面には岩槻城下を示す「いはつき道」、左側面には旧岩槻市(現さいたま市)の慈恩寺を示す「じおんじ道」と上高野村(現杉戸町)の永福寺を示す「たかの道」が刻まれています。
小針領家のささら獅子舞用具等一式(有形民俗文化財)
小針領家のささら獅子舞は、北埼玉郡種足村(現加須市騎西)からもたらされたと伝えられ、市内西部(川田谷地区)に伝承されているささら獅子舞とは異なる系譜にあります。
獅子舞用具が保存されている長持ちのうちで最古のものの蓋裏には享保4年(1719)の墨書きがあります。昭和34年に獅子舞が一時中断されますが、それ以降も氷川諏訪神社の祭礼では「虫干し」と称して獅子頭を社前に並べていました。そのため、用具の保存は良好な状態を保っていました。
その後、平成14年に小針領家のささら獅子舞は復活を遂げ、現在は氷川諏訪神社の祭礼で奉納されています。なお、小針領家のささら獅子舞は市指定無形民俗文化財に指定されています。
前領家矢部家山王社の奉納絵馬等 付 民間信仰資料(有形民俗文化財)
これは、川田谷前領家にある山王社内に伝えられる民間信仰資料です。かつてこの社では、地元前領家に今も伝わる前領家のささら獅子舞(市指定文化財)が毎年奉納されていました。
天明・寛政期以降、江戸後期から明治時代の絵馬を始めとする民間信仰資料が豊富に現存しています。奉納された絵馬の総点数は68点です。
奉納されていた絵馬の特徴は、安産祈願の絵馬といわれる「鷹」が多いことです。最古の絵馬は安永7年(1778)の「鷹」の絵馬です。
絵馬は、人々の祈りや願い、感謝を込めて神様に奉納した「板絵」であるといわれています。山王社に奉納された絵馬からも、地元の人々のこうした思いが伝わってきます。
鷹の絵馬
猿の絵馬
拝みの絵馬
下日出谷の神楽・芝居用具(有形民俗文化財)
下日出谷の和久津家は、昭和初期から40年代まで、里神楽の太夫元を勤めていました。明治27年生まれの和久津伊作は、大正~昭和初期には自宅で製茶業を営んでいました。茶葉は浅草方面へも卸していたことから、伊作は地元の太鼓店と懇意になりました。こうした中で伊作は神楽師たちとも知り合い、神楽を習い覚えたといいます。
伊作は、上尾や川越の神楽師の出方(助演)を頼まれて活躍した後、地元の芸能好きな人たちを集めて一座「和久津社中」を構え、「和久津太夫」として知られるようになりました。和久津社中は、地元日出谷の氷川神社のほか、鴻巣の常光、狭山の梅宮神社、時には東京まで遠征し盛んに神楽や芝居を上演していました。
昭和32年に伊作が亡くなった後も、和久津社中は昭和40年代まで神楽を続けましたが、やがて人手不足によって休止状態となり、今日では上演できる態勢が失われてしまいました。
和久津家には、約300点にのぼる当時の面および衣装が残されています。これらの神楽用具は保存状態が良好で、当時の神楽の演目も知ることができます。
きつねの面
ひょっとこの面
大黒の面
榮町山車人形「関羽」像(有形民俗文化財)
榮町山車人形「関羽」像
かつて、桶川町の祇園祭で下中町(榮町)の山車に飾られた人形です。三国志で有名な「関羽」像です。高さ206.4センチメートルの武官風の立像で、眉を吊り上げ、眉間に皺を寄せ、薄く口を開いて激しい怒りの相を表しています。頭は寄木造で玉眼、胡粉地に彩色され、髪・髭は植毛されています。
大正3年(1914)に中山道に電線がひかれたことから、その後は山車から降ろされ、近年は祇園祭の際に榮会会所となる矢部家住宅(市指定文化財)の前に飾られます。
台座の裏側には人形の来歴を伝える墨書があり、「生き人形」の名工であった松本喜三郎の門人で、幸手町の石村定吉が明治25年に製作したものであることがわかります。世話人には榮町の若者連中の名が並んでいます。
作者石村定吉の経歴は不詳ですが、当時の幸手宿の営業便覧によると、久喜新道沿いで三味線工房を営む人物にその名があります(幸手市史より)。おそらく近代に入り人形制作に加え、三味線工房を営んだものと推測されます。作者は生き人形師として熟練の腕前の持ち主であったことうかがえ、頭や手脚に見られる生々しく迫真的な造形表現はとても優れていて、美術工芸品としても高く評価されます。衣装や持ち物もほぼ当時の物を伝えていて、外観の保存状況も良好です。
幕末から明治初期に一部で流行した生き人形系の技法を見せる山車人形として貴重であるとともに、往時の桶川町の活況ぶりをうかがわせる歴史資料としても見逃せない存在です。
八雲山車人形「神武天皇」像(有形民俗文化財)
八雲山車人形「神武天皇」像
かつて、祇園祭の際に立花町の山車の上に飾られた、神武天皇像の山車人形です。高さが210センチメートルある武人風の立像で、頭は威相、眉を吊り上げ、眼を見開き、口をひき結んで厳しい表情を表しています。頭の構造は前後二材で内刳と思われます。現在書き眼となっていますが、元は玉眼嵌入とみなされます。胡粉地に彩色され、髪・髭は植毛です。
昭和49年に記された由来書によれば、明治20年以前に花車とともに購入したものと伝わり、同25年に山車とともに第1回の大修理を行い、続けて同44年には人形の頭や手の塗り替え・衣装等の仕立て直しを含めた第2回の大修理が行われたことが知られます。大正期に中山道に電線がひかれたことから、その後は山車から降ろされて保管されていきましたが、昭和49年に再び大修理が行われ、祇園祭の際に八雲会の会所前に飾られるようになりました。
度重なる修理により、オリジナルの姿を留める部分か少なくなっていますが、雄勁な頭の作風は迫力があり、明治44年修理時のものとみなされる衣装とともに往時の威風を忍ばせるものがあります。また、3回にわたる大修理のほかにも、地元においても軽微な修理を繰り返しながら、町内で大切に使われてきた様子をうかがうことができ、祇園祭や地域の歴史を物語る民俗資料としての価値には見逃せないものがあります。
足立坂東観音霊場参詣大絵馬(文化三年)(有形民俗文化財)
足立坂東観音霊場参詣大絵馬(文化三年)
この絵馬は、縦82.5センチメートル、横127.5センチメートルの大きさがあり、文化三年丙寅十月吉祥日と墨書されています。下日出谷の知足院を一番札所とする「足立坂東観音霊場」を構成する二十一番札所の砂ヶ谷戸(いさげーと)観音堂に、文化3年(1806)10月に奉納されたもので、この観音堂への参詣の様子を描いています。観音巡礼などの奉納絵馬は、訪れた遠地の社寺や名所を描くものが多い中、この絵馬のように、地元の観音霊場を描くものは珍しい例です。
絵馬の下部には奉納者名が記されており、これによると川田谷村の狐塚、砂ケ谷戸の東光寺、山ヶ谷戸(現川島町)の観音講中38人で奉納したものであることがわかります。奉納者名の多くは女性であり、女人講中で奉納したものと思われます。奉納者が女性を中心とした霊場参りの絵馬はたいへん珍しいものです。
画面全体に大きく観音堂が描かれ、巡礼は右から左に進んでいます。巡礼者は白衣に笈摺(おいずる)を着け、白足袋の姿で、手には菅笠を持ち、杖を持つ人の姿もあります。図柄の人物はとても丁寧に描かれています。江戸時代の足立坂東観音霊場参詣の様子を知ることのできる数少ない資料です。
三田原のささら獅子舞(無形民俗文化財)
三田原のささら獅子舞
三田原のささら獅子舞は、その系譜については明らかでありませんが、延宝から元禄の頃、雨宮武休という人が獅子舞を中興し、芸が整えられ、その後次第に盛大になり今に伝えられるといわれています。現在は三田原の氷川神社で演じられていますが、かつては柏原の獅子組の人たちによって、八幡神社の祭礼で演じられていたとのことです(「三田原」とは、三ツ木、田向、柏原の3地区を意味します)。その後、戦中から戦後にかけて中断をされていましたが、昭和40年代になって地元の熱意により復活を遂げました。
五穀豊穣、万民快楽を祈願して行なわれるこの獅子舞は、道中行列を含め約2時間にもなる長いもので、12の「場」から成っています。道中の行列が社前の舞庭に到着すると、まず宰領が舞庭に入り場を清めます。その後、法眼(先獅子)、後獅子、雌獅子の順で舞庭に入り拝礼します。そして、三頭は宰領の導きによって舞いを始めます。
複雑で、多様な変化のある優美な舞いが特徴で、かつて文化年間の頃には、比企郡白井沼へ教授したこともあったそうです。衣装にある「三つ柏」の紋はこの地を領した牧野家の紋で、これは川田谷に残る三つの獅子舞に共通しています。祖先が守り伝えてきた昔の舞、曲、歌を崩さず、本来の姿で伝えていくことを重んじています。
10月の三田原氷川神社の秋祭りに、氷川社及び八幡社の前で奉納されます。当日には朝から村廻りも行なわれます。地域の子どもたちも獅子や笛を習っており、後継者育成にも力を注いでいます。
前領家のささら獅子舞(無形民俗文化財)
前領家のささら獅子舞
前領家のささら獅子舞は、10月半ばに行われる前領家区の祭礼に際し、王子稲荷神社境内(王子農村センター )で奉納されています。 ここは明治初年に廃寺なった西福寺と呼ばれる寺院の境内地で、獅子舞はかつてよりここで行なわれていました。「王子稲荷」の名からも推測されるとおり、西福寺は熊野信仰と深い関わりをもつ十一面観音を本尊とするなど、修験の色彩を強く持った寺院でした。
この獅子舞が前領家に伝わった経緯などは不明ですが、隣村である天沼に館を構えた牧野家から川田谷のささら獅子舞が招かれたときに、前領家の獅子舞が邸内で演じることを許され、以来、宰領が陣笠をかぶることとなったとの伝承があります。
舞は、道化の面を付けた宰領と、雌獅子、中獅子、法眼の三頭の獅子によって演じられ、舞庭の四隅には、牡丹と桜の飾りの付いた花笠が立ちます。区切れがはっきりと意識されており、この点では同じく川田谷に伝えられている獅子舞の中で、三田原のささら獅子舞(市指定文化財)よりも松原のささら獅子舞(市指定文化財)に近いとされますが、舞の所作は、古態を示すと考えられる松原の所作よりも洗練が進み、直線的な美しさを見せる腕の使い方や、細かな足さばきが特徴です。現在、全12切れのうち「雌獅子隠し」を含む9切れが伝承されています。また、笛方は市内で唯一7穴の笛(松原、三田原は6穴)を用いています。
前領家地区では、7月中旬にも村回りが行われ、獅子の一行が村内各戸をが祓ってまわる行事が戦時中も中断することなく続けられてきました。この行事は現在も前領家のくらしと深い関わりを保っています。
松原のささら獅子舞(無形民俗文化財)
松原のささら獅子舞
松原のささら獅子舞は、かつては旧暦10月15日に行われていたともいわれていますが、現在は10月の第一日曜日に行われる松原八幡神社の祭礼に奉納されています。昭和30年頃までは夏の祇園(天王様)にも村回りが行われ、村内各戸を祓ってまわったといいます。
松原区に伝承されているささら獅子舞は、当地方における獅子舞の古くからの形態を伝えていると考えられています。かつてより八幡神社の祭礼で奉納されてきたもので、いつから始まったかは不明ですが、元禄年間以前(1688以前)より行なわれていると考えられています。所作においては力強く足を大地に踏み、儀礼的な色彩をとどめ、構成においては舞の区切れがはっきりと意識されています。しかし、戦後の奉納の中断はなかったものの、「雌獅子隠し」及びその前後の区切れを失い、現在は全12切れのうち7切れが伝承されています。
構成の特徴は「宰領」の所作によく現れ、前半には厳めしい「赤面」と呼ばれる面を付け、後半には宰領のもうひとつの側面である道化をあらわす「さるばか」の面に付け替えるといった作法を市内で唯一伝えています。また、かつては儀礼的な一要素として、最後の舞庭の終了後に社殿の回りを巡る「花見車」と呼ばれる作法が、この獅子舞にのみ見られました。
芸の系譜としては、川田谷のその他の獅子舞と系譜を同じくしますが、獅子唄の内容はこれらと異なり、江川を隔てて隣接する上尾市藤波の獅子舞と同じ詞を用いています。
下日出谷の餅つき踊り(無形民俗文化財)
下日出谷の餅搗踊りは、300年ほど前に西の方から伝わったという言い伝えはありますが、その起源については定かではありません。餅つき踊り(「餅搗き」・「曲搗き」)は、定期的には元日と3月15日に近い日曜日に地元の日出谷氷川神社で披露されています。かつては、定期的に行われるということはなく、有力者の家で行われる「帯解きの祝い」に招かれ演じられたり、七五三や米寿や伊勢参りの祝いで披露されたり、他市町村まで曲杵と衣装をもって気軽に搗きに出かけ、交流を深めていました。また、臼を引きずる「ズリモチ」あるいは「ひきずり餅」も行われ、七福神や鶴亀、俵や酒樽を積み注連縄を張って、それに帆まで立てた臼を宝舟に仕立てて、祝い事のある家から氷川神社まで引きずったともいわれています。現在も各所のイベントなどに招待されて演じるなど、多くの上演機会を持っています。
下日出谷の餅つき踊り
餅つき踊りは、別名接待餅と呼ばれます。芸の構成は「木遣」に合わせて入場し、そのまま臼の回りを巡りながら餅をこねることに始まります。その後、麦打ち唄に合わせて4人が1組となって餅を搗きます。これを「棒打ち」と呼んでいます。続いて、4人ないし3人によって、技巧的な杵さばきによって餅を突き上げる「餅殺し」が「こねどり」の指図によって数回行われます。
搗きあがった餅は、きな粉餅とからみ餅に仕上げられ、観客に振る舞われます。その後空の臼を細い杵で技巧を凝らして搗きながら舞う「曲」が演じられます。下日出谷においては、曲をよく伝承し「ニク」「シッチョイ」「ネズ」「七五三」などの演技を伝えています。この「曲」の合間には、餅つき連が臼の回りで万作を踊ることが今でも行われ、その演目には「キッサキ」が選ばれています。万作(下日出谷の万作・市指定文化財)による中断後、再び曲が再開し、最後に「七五三」を演じて演技を終了します。
下日出谷の囃子(無形民俗文化財)
下日出谷のお囃子は、江戸神田囃子大村井流を継いでいます。下日出谷には、今からおよそ300年前の元禄年間から「古囃子」(ふるっぱやし)と呼ばれるものが伝わってきましたが、安政の頃に川田谷の松原から新たに教えを受けたものが現在に伝わっています。これが江戸から伝わった大村井流で、江戸深川より始まり、大宮の「鍬屋」が川田谷へ伝えたといわれています。
下日出谷の囃子(祇園祭)
楽器はツケ(小太鼓)2、タマ(大太鼓)1、スリガネ(鉦)1、笛1の5人囃子で、曲目は「屋台囃子」(やたいばやし)、「昇殿」(しょうでん)、「神田丸」(かんだまる)、「鎌倉」(かまくら)、「大間」(おおま)、「岡崎」(おかざき)の6曲があります。
伝習は、はじめに言葉を習い、次に古タイヤなどを叩いて練習します。楽器は小太鼓、大太鼓、笛の順に習っていきます。曲は屋台囃子、岡崎、鎌倉、大間、昇殿、神田丸の順に習います。また、岡崎にはおかめ、ひょっとこの踊りがあります。
3月の日出谷氷川神社の祭礼や7月15、16日の桶川祇園祭などで演奏しています。神社の祭礼では、以前は囃子棚で演奏していましたが、現在はトラックの荷台を利用しています。口上説(じごと)も保存されており、演奏の格調も高いお囃子です。
倉田の囃子(無形民俗文化財)
倉田のお囃子は、江戸神田囃子松本流を継いでいます。江戸後期の頃は、いわゆる古囃子という初期のお囃子が伝えられていたようですが、現在伝承されているものは明治の頃に足立郡菅谷村(現上尾市菅谷)から習ったものと伝えられています。
倉田の囃子
楽器は附太鼓(小太鼓)2、玉太鼓(大太鼓)1、スリガネ1、笛1の5人囃子で、屋台囃子、昇典、神田丸、鎌倉、四丁目(しちょうめ)、矢車(やぐるま)、ひょっとこ囃子、道中(どうちゅう)の8曲が演奏されていました。このうち昇典と道中は「静か物」と呼ばれます。現在は屋台囃子を主に演奏しています。なお、この屋台囃子は10の曲に分かれています。
4月と10月の倉田氷川神社の祭礼や、7月14日の村廻り、7月15、16日の桶川祇園祭などで演奏され、お祭を盛り上げています。
麦ボーチ唄(無形民俗文化財)
麦打ちの様子
麦ボーチ唄は「麦打ち唄」とも言われ、「ボーチ」または「ぼうち」とは棒打ちの意味です。地元では「ぼうち唄」「むぎぼうち唄」とも呼ばれている、麦の脱穀作業の際に歌われた仕事歌です。これは埼玉県の中央部、比企郡、入間郡、北足立郡などで広く歌われていたものです。桶川でも麦作が盛んであったことから、かつては加納地区や下日出谷地区でも歌われていましたが、現在では川田谷地区の保存会が伝承するのみとなりました。
脱穀作業には「くるり棒」という道具を用います。これは竹竿の先にくるりと回転するように樫の棒を取り付けたものです。乾燥させた後に地面に広げた麦の穂を、数人が一列または向かい合わせに並び、このくるり棒で叩いて脱穀します。この時に声を合わせてボーチ唄を歌い、皆で調子を取りながら労働の辛さを和らげたものと思われます。
くるり棒を用いた脱穀作業は、大正時代頃までは盛んに行なわれていましたが、機械化が進むにつれ廃れていきました。
川田谷・下日出谷の万作(無形民俗文化財)
埼玉県内の平野部に広く伝えられた芸能です。「豊年万作」ともいいます。まさに豊年を喜ぶ豊年予祝の芸能で、農民の娯楽としても広く行われました。
桶川では川田谷、下日出谷の計6団体で伝承されています。もとは男性が担い手でしたが、現在は主に女性によって受け継がれています。万作は鉦や拍子木と歌で調子がとられ、「銭輪」「きっさき」「伊勢音頭」「下妻」「口説」などの手踊りが踊られます。かつては、歌に加え台詞を述べる「段物」と呼ばれる芝居の要素が入った演目もありましたが、現在では手踊りが主になりました。三田原の万作では、「道者の踊り」など他の万作では見られない演技も伝えられています。多くは地元の神社の祭礼などで踊られています。
市内で伝承されている万作は、以下の通りです。
【下日出谷】下日出谷の万作
【川田谷】岡村の万作、松原の万作、三田原の万作、諏訪の万作、薬師堂の万作
松原の万作
三田原の万作
薬師堂の万作
諏訪の万作
下日出谷の万作
岡村の万作
小針領家のささら獅子舞(無形民俗文化財)
この獅子舞は北埼玉郡種足村(現加須市騎西)から伝えられたとされていますが、その由来については定かではありません。しかし、獅子舞用具が保存されている長持ちのうちで最古のものの蓋裏には享保4年(1719)の墨書きがあることから、今からおよそ280年前には小針領家で獅子舞が舞われていたと考えられます。
天下泰平、五穀豊穣、悪病退散を祈願する勇壮な舞は、かつて「領家のささら」と近郷でも親しまれていましたが、昭和34年(1959)を最後に一度途絶えました。しかし、平成11年(1999)に復活へ向けた活動が開始されました。困難を乗り越え、平成14年(2002)には旧埼玉県立民俗文化センター主催の民俗芸能公演への出演を果たし、復活しました。
演技は獅子舞と棒使いで構成されています。役割は、大獅子、中獅子、女獅子の3頭の他、舞の先導役である天狗、花笠、笛方、棒使いがあります。獅子舞の前に、舞の場を清めるための棒使いの演技が行なわれます。棒使いでは、木太刀を使った「一打ち」や、六尺棒を使った「四人棒」などの演技が主に行なわれています。獅子舞には、若者の舞う「草神楽」と熟練者の舞う「正神楽」があります。
かつての獅子舞の伝承者は、氷川諏訪神社の氏子男子に限られ、獅子役などは代々世襲で氏子長男とされ、厳密に守られてきました。現在では老若男女の区別なく、多くの人が獅子舞を支えています。主に4月と9月の氷川諏訪神社の祭礼で披露されており、子ども達による棒使い、獅子舞も披露されます。40年の時を超えて復活した獅子舞は、現在も着実に伝承の道を歩んでいます。
棒使いの演技
子どもによる獅子舞
木戸跡(記念物・史跡)
桶川宿の町並みには、宿場への出入り口としての役割を果たす木戸が設けられていました。この木戸は宿場の両端に設けられており、京側(鴻巣宿方面)が「上の木戸」、江戸側(上尾宿方面)が「下の木戸」と呼ばれました。元禄期に描かれたとされる「桶川宿古絵図」(市指定文化財)には、木戸が明確に描かれています。
構造や高さなどは不明ですが、文久元年(1861)の皇女和宮下向の時には、高さ一丈三尺(約4メートル)、幅八寸(約0.24メートル)の角材を建てて改設したといいます。木戸には木戸番がいて、明け六つ時に開門し、暮れ六つ時に閉門していました。
当時の桶川宿の延長は約1キロメートルあり、木戸は宿場の治安維持の一翼を担っていました。現在は桶川宿古絵図から上・下それぞれの木戸のあった場所を推定し、その付近に石碑を建てて古の記憶をとどめています。
上の木戸跡
下の木戸跡
原山古墳群(記念物・史跡)
原山古墳群遠景
荒川を西側に見下ろす川田谷の台地上には多くの古墳が確認されています。これらは川田谷古墳群と呼ばれており、この一帯は大宮台地でも有数の古墳密集地帯でした。川田谷古墳群は四つの支群に分けられており、北から西台支群、原山支群、柏原支群、樋詰支群と呼ばれています。そのいくつかは江戸時代より知られていました。しかし、明治以降の大規模な開墾により多くが姿を消してしまいました。
川田谷古墳群は、それぞれの支群で行われた調査より、6世紀の前半頃から7世紀の後半にかけて築かれた古墳群であることが分かりました。この時期は、荒川左岸に沿って多くの古墳群が築造された時期です。
現在では、原山支群の中で現存する9基の古墳が「原山古墳群」として大切に保存され、当時の面影と武蔵野の里山風景を残しながら、荒川を望む高台ににその姿をとどめています。
高井遺跡住居跡(記念物・史跡) と 高井遺跡出土品(有形文化財・考古資料)
高井遺跡1次調査地点(現 桶川西小学校)
桶川西小学校のあたりは「高井」と呼ばれ、昭和30年代までは一面雑木林が広がっていました。この雑木林は、昭和40年代以降に住宅地として開発が進み、大きくその姿を変えていきました。
昭和43年、宅地化にともなう人口増加を受けて、ここに小学校を作ることが決まりました。その造成中に雑木林の下に眠っていた遺跡が姿を現しました。発掘調査によって、多くの土器や石器とともに25軒の竪穴式住居が見つかり、縄文時代中期(約4,500~4,000年前)の遺跡であることが分かりました。
その後もこの周辺は宅地化が進み、現在までに12回の発掘調査が行われています。これまでに見つかった竪穴式住居跡は合わせて100軒以上にのぼり、高井遺跡は、直径約200メートルの円に沿って竪穴式住居が並び、中央に広場を持った集落の跡であることがわかりました。
高井遺跡出土品
現在、桶川西小学校地内に竪穴式住居の跡が1軒地中に保存され、市指定文化財(史跡)に指定されています。また、発掘調査で発見された土器や石器も市指定文化財(有形文化財)に指定され、桶川市歴史民俗資料館で保管・展示されています。
桶川西小学校の校章には縄文土器がデザインされ、校歌にも高井遺跡のことが歌われています。
加納城跡(記念物・史跡)
加納城の土塁と堀
加納城は、赤堀川の低湿地を防御に利用した平城です。発掘調査の結果から、戦国期を下限とする室町時代に存続した城であると考えられます。平面形は出丸をもつ方形の内郭と、それを取り囲む外郭で構成されています。内郭の面積は11,400平方メートルで、外郭を含めると43,000平方メートルに及びます。来歴や城主等は不明ですが、岩槻太田氏の支配下にあった鴻巣七騎と呼ばれた土豪のひとり本木氏の城であると推定されています。
昭和30年代まで、約43,000平方メートルの縄張り内に、土塁や堀をよく残していました。しかしながら、昭和40年代の団地造成により、その遺構の大部分を失ってしまいました。現在は、内郭土塁と堀の一部(私有地)を残すのみとなっています。
※私有地に所在します。見学については十分なご配慮をお願いします。
後谷遺跡(記念物・史跡)
後谷遺跡は、桶川市赤堀2丁目に所在する縄文時代後期から晩期(3,500年~2,500年前)の低湿地の遺跡です。大宮台地の北部、元荒川が南流する低地に面した台地東縁から、半島状に突出した舌状低位台地上及びその周辺低地にかけて立地します。昭和41年の浦和考古学会による発掘調査以降、これまでに5次に亘る発掘調査が行われてきました。
大型の木杭の列
昭和62年から平成元年にかけて行われた第4次発掘調は、調査面積が約13,000平方メートル に及ぶ大規模なものとなりました。この調査では、台地上に築かれた環状盛土上に営まれたと考えられる集落と、低地部に広がる遺物包含層が調査され、居住域と水辺の生業活動域との関係が明らかにされました。
台地部では竪穴式住居跡14軒のほか多くの土壙や炉跡が見つかり、低地部では木組遺構4基、木道状遺構1基のほか、大型の杭を複数打ち込んだ杭列などが見つかりました。
木製品や加工木材が見つかった様子
遺跡からは大量の土器や石器、土偶や装身具類のほかに、豊富な地下水による天然の真空パックによって腐敗から守られた木の道具や、食料としていた木の実や動物の骨なども大量に出土しました。中でも漆を塗って仕上げた木製の櫛や弓などの道具からは、当時の工芸技術の高さを知ることができます。
こうした多くの遺物や遺構は、自然と共存しながら豊かな生活を営んでいた当時の人々の様子を私たちに伝えてくれます。
現在は、「後谷公園」の地下に遺跡の一部が現状保存されているほか、後谷遺跡から出土した膨大な出土品のうちの645点は重要文化財に指定されています。
椎樫(記念物・天然記念物)
椎樫
高さ約9メートル、根回り約9メートル、樹齢は400年とされている古木です。一般には「シイガシ」と呼ばれていますが、植物学上の名称はスダジイといいます。シラカシ、アオキ、クス、ヒサカキなどの常緑広葉樹とともに照葉樹林を形成し、関東地方の開発が進む以前の自然景観を形成していたとも考えられています。
この椎樫は、記念すべき桶川市指定文化財第1号の文化財です。椎樫の古木で、かつ大きなものはたいへん珍しいということで、昭和35年に指定されました(当時は桶川町)。その後、上越新幹線の敷設に伴い、昭和55年に現在の場所に移植されました。
樹形は、枝を大きく広げ、大変優美な姿をしています。 近年は樹勢に衰えも見え始めていますが、現在は樹勢回復のための措置を施しながら、保存をはかっています。
※私有地に所在します。見学については十分なご配慮をお願いします。
多気比売神社の大椎(記念物・天然記念物)
多気比売神社の大シイ
市内北東端に近い篠津の多気比売神社は、平安時代に編さんされた「延喜式」の「神名帳」に名が載る足立四座の一つで、市内で最古の神社です。地元では「ひめみやさま」と親しまれ、古くから安産の神様として信仰を集めてきました。
境内正面にある大シイは、高さ13メートル、枝張り南北17メートル、東西14メートル、樹齢は600年と推定されている、古木の風格漂うご神木です。境内の他の樹木とともに、篠津地区の人々の信仰と親愛の情によって守られています。5月末頃には黄色い房状の花が咲き、9月にはドングリに似た小さな実が熟します。
歳末には氏子達によって太い七五三縄が作られ、前年の縄と張り替える習わしが続けられています。
ムクロジ(記念物・天然記念物)
ムクロジ
このムクロジは、坂田の民家庭先にあります。高さ約20メートル、根回り4メートルで、樹齢は約250年と推定されています。
ムクロジは、本州中部以南に自生する、温暖な地を好む落葉樹です。5月頃に開花します。実は2センチメートルほどで、中の黒色の種子は羽子板の羽根に付けたりして利用されます。皮はサポニンを含有しているため泡立ちがよく、石鹸の代用として洗濯に用いられたりしました。また、材質はやわらかく、うどんを打つ際の板に適しています。
※私有地に所在します。見学については十分なご配慮をお願いします。
普門寺のしだれ桜(記念物・天然記念物)
普門寺のしだれ桜
川田谷の普門寺は、同じく川田谷の東叡山泉福寺の末寺です。江戸時代には石戸領の総鎮守であった諏訪神社の別当として栄えましたが、現在は建物も残っておらず、境内地に残された敷石や手水鉢などが、かつての寺院の面影をわずかに留めています。
この境内にあるしだれ桜は、エドヒガンザクラの変種で、イトザクラとも呼ばれています。高さ11.5メートル、指定時の樹齢は約180年と推定されています。開花はソメイヨシノよりやや早い3月末頃で、満開の頃には多くの見学者で賑わいます。
枝垂れた枝に小ぶりのかわいらしい花をいっぱいに咲かせたその姿は、多くの人の心を和ませてくれます。
伝足立右馬允遠元館跡(旧跡)
足立右馬允遠元(あだちうまのじょうとおもと)は、今からおよそ800年前に足立郡を領有した豪族です。平治の乱では源義朝に従い、待賢門の戦や六波羅攻めにおいて、その武勇と友情の美談を残す武将として有名です。鎌倉幕府に仕え、当時の武将としては珍しく行政官としても活躍し、幕政の重臣となってゆきました。
足立遠元館跡の碑
この足立右馬允遠元の館跡と伝承される場所は4箇所あります。一つは現さいたま市西区の植田谷本にあり、旧植田谷本村の名主小島家にあった足立神社と伝わります(現在は同西区飯田の足立神社に合祀)。後の3箇所は桶川市内で、一つは桶川市川田谷の三ツ木城跡、一つは桶川市神明1丁目諏訪雷電神社付近、もう一つは桶川市末広2丁目にあった通称「一本杉」の辺りです。これらのうちどの場所が真実の足立遠元の館跡なのかを決定する資料は得られていませんが、地元では昔から一本杉のところが足立右馬允遠元の館跡と言い伝えられています。
かつてはこの一本杉の根元に板石塔婆6基と、足立右馬允の家紋と共に「神明宮建久三歳城主足立右馬允建之 文化六巳歳再建 府川甚右衛門尉義重」と刻まれた石祠がありました。昭和30年頃には、幅1m前後の水堀と、一本杉の東南方向に深さ2mの堀が存在しましたが、昭和31年頃に埋め立てられました。一本杉も切り倒されてしまいましたが、現在はこの一本杉があった付近に記念碑(桶川市総合福祉センター地内)が建てられ、遠い歴史の記憶を私たちに語り継いでいます。
※令和4年6月中旬から7月中旬にかけて周辺施設の改修工事を行いますので、お越しの際には十分に注意してご見学いただきますよう、お願いいたします。
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文化財課 文化財保護係(川田谷生涯学習センター内)
住所:桶川市川田谷4405-4
電話:048-786-4009(直通)
ファックス:048-786-4031
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更新日:2016年09月12日