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武蔵武士 「足立遠元」に迫る

更新日:2022年03月15日

日本史上初の武家による政権として鎌倉に興った鎌倉幕府。鎌倉殿に仕え、政権の創設と幕府の政治を支えた13人の重臣の1人として活躍した足立遠元についてご紹介します。

足立遠元と足立氏について

足立遠元は平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した武蔵国(現在の埼玉県、東京都、神奈川県の一部)の武士で、鎌倉幕府を創設した源頼朝の御家人として幕府の重臣となった人物です。生没年ともに不明です。

足立氏に関する系図は『尊卑分脈』や『足立系図』などがあり、その信憑性を含め様々な研究がありますが、ここでは『足立系図』(丹波氷上郡佐治庄地頭足立氏系圖(東京大学史料編纂所蔵・兵庫県氷上郡山垣村足立九郎兵衛家文書))に従い話を進めようと思います。

『足立系圖』によると、遠元は藤原北家(勧修寺流)の家系で、父は藤原遠兼という人物です。遠兼の実体は不詳ですが、「中右記」に見られる儀典の記録の中に近衛府の舎人として遠兼の名があります。遠兼は京から関東の武蔵国府の役人として下向した官人で、在地の有力官人であった秩父氏の流れをくむ豊島康家の娘と結婚しました。この2人の間に生まれたのが遠元です。後に遠元は、豊島氏をとおして足立郡司職を継承したと伝わり、その職に因んで「足立」を姓とし「足立遠元」と名のりました。これが足立氏の始まりです。

このように足立氏は、父祖代々より足立郡に生まれ土地を開発した地元の土豪ではなく、関東に下った京の官人の子孫が武蔵武士として土着した家系であるといえます。

 

足立氏系図(PDFファイル:182.3KB)

 

足立遠元と桶川の関係とは?

足立遠元と桶川との関係、それは、遠元の館があったという伝承地がここ桶川にあるということです。遠元が治めていた足立郡は、現在の行政域に照らすと、鴻巣市・北本市・桶川市・伊奈町・上尾市・さいたま市・戸田市・蕨市・川口市・草加市・東京都足立区にわたる広大な範囲でした。

このうち遠元の館跡と伝わる場所は4か所あります。1か所はさいたま市西区植田谷本内で、残りの3か所が桶川市内にあるのです。3か所のうち一つは桶川市川田谷の三ツ木城跡、一つは桶川市神明1丁目の諏訪雷電神社付近、もう一つは桶川市末広2丁目の総合福祉センター付近です。ただし、いずれの地も決定的な資料は見つかっておらず、残念ながら伝承の域を出るものではありません。

遠元の館跡として最も有力視されているのが末広2丁目の総合福祉センターがある一帯。かつて地元で「一本杉」と呼ばれた場所です。江戸時代の文化・文政期に江戸幕府が編纂した「新編武蔵風土記稿」の桶川宿の項にも、遠元館と伝わる地があることが記述されています。

昭和の中頃まで、ここには一本の杉の老木がそびえ立ち、その根元に「神明宮建久三歳城主足立右馬允建之 文化六巳歳再建 府川甚右衛門尉義重」と刻まれた石の祠がありました。昭和30年頃には、幅1m前後の水堀と、一本杉の東南方向に深さ2mの堀が存在しましたが、昭和31年頃に宅地化などのために埋め立てられ、一本杉も切り倒されてしまいました。現在はこの一本杉があった付近に遠元館を示す碑が建てられ、古の伝承を今に伝えています。そして、この地は旧跡として桶川市指定の文化財に指定されています。

 

なお、以下に『新編武蔵風土記稿』の桶川宿の項より、一部を抄書します。

 

旧蹟 屋敷蹟

足立右馬允カ居住ノヨシ 今ハ林トナレリ 其中ニ石ノ祠ヲ立レトモ 文字ナケレハ其来由ヲ知リカタシ 昔 屋敷蹟トオホシキ所ヨリ武器陶器ナト掘出セシコトモアリシト云 コノ右馬允 名ヲ遠元ト云 (以下略)

一本杉2

遠元館跡の伝承地「一本杉」(昭和中頃)

 

 

遠元館跡石碑

遠元館跡の石碑

 

 

足立遠元とはどんな人物?-遠元の事績をひもとくー

足立右馬允遠元は、文武両道に優れた武将であったといわれています。遠元が本格的に歴史に登場するのは1159年(平治元年)の「平治の乱」です。平氏一門が権勢を振るっていた当時、その中心にいた信西(藤原通憲)と平清盛を倒すために、清盛の熊野参詣の留守を狙って権中納言藤原信頼と源義朝(源頼朝の父)らが手を結びクーデターを起こします。足立郡司であった遠元は、この時南関東に勢力を持っていた源義朝に従って参戦します。この戦いの功績で、遠元は「右馬允」という官職を受けました。右馬允は、馬の飼養や管理を主務とする馬寮の重要ポストですが、東国の武士がこの任官を受けるのは稀なことでした。その後の平治の乱の行方は、京に戻った清盛の反撃により最終的には平氏側の勝利に終わり、遠元ら源氏側は敗走することとなります。平治の乱後に平氏は勢力を伸ばし、武蔵国においても平清盛の子・知盛が武蔵守に任じられ、遠元が郡司であった足立郡も平氏の支配下となります。こうした中で、遠元の武蔵国での動向も不明となります。

1180年(治承4年)8月、平治の乱に敗れ伊豆国(現在の伊豆半島、伊豆諸島一帯)に流刑されていた義朝の子・源頼朝は、平氏追討の命を受け挙兵します。相模国石橋山において一度は敗戦したものの、真鶴岬から船で安房国猟島(現在の千葉県南部)へ逃れ、上総国の上総氏(上総介広常)や下総国の千葉氏(千葉常胤)など在地の武士を味方につけ勢力を増しながら、10月2日に隅田川を渡河し武蔵国に入国しました。この時、武蔵武士として豊島清元や葛西清重らの秩父一族とともに真っ先に頼朝を出迎え加勢したのが足立遠元です。この忠誠心に応えた頼朝は早速に足立郡を遠元に安堵し、遠元は足立郡司に復帰したのです。

1184年(元暦元年)、頼朝は公文書や財政など政務の中心を司る「公文所」を設置します。この機関の長である「別当」には、朝廷の下級役人であり、後に鎌倉幕府の頭脳ともいうべき重要な存在となる大江広元が招かれました。同じく機関の役人である「寄人」にも京都から優秀な官僚たちが招かれましたが、遠元は武蔵武士として唯一寄人の1人に異例の抜擢を受け、政治の中心に参画してゆきます。

1190年(建久元年)10月に頼朝が京都へ上り権大納言・右近衛大将に任じられた際は、遠元もこれに同行し、儀式への参列が許された7人の御家人の1人になりました。また、この年に、奥州合戦の勲功として頼朝の御家人10人への任官が認められた際は遠元もその1人に選ばれ、「左衛門尉」に任ぜられました。こうして、遠元は頼朝政権草創期の重臣としての地位を確立してゆきました。

近年の歴史解釈によって、1185年(文治元年)にはすでに「鎌倉幕府」といわれる源頼朝を頂点とした政権が成立していたと考えられていますが、1192年(建久3年)頼朝は後鳥羽天皇によって「征夷大将軍」に任ぜられ、ここに名実ともに鎌倉を拠点とした武家政権が確立しました。遠元が属す公文所は、将軍の「政所」となり幕府政治の中枢を担うようになりました。

1199年(建久10年)1月、源頼朝が亡くなると、その子頼家が第2代将軍となります。この時に、幕政は13人の有力御家人による合議の上に運営されることとなります。遠元もその1人として引き続き幕政の中心を担っていくこととなったのです。

この13人は、初期の鎌倉幕府を支えた有力者たちでしたが、幕府内部に政変が起こるようになると、遠元とともに幕政を担った人物も失脚したり謀殺されたりと、徐々に姿を消してゆきます。

では、遠元はどうなったのでしょう。鎌倉時代の歴史書である「吾妻鏡」によると、1207年(建永2年)の記述を最後に遠元の名は表舞台から姿を消し、その後の記録にも見られなくなります。1211年以降は遠元の息子「足立八郎元春」の名が登場するようになり、この頃すでに遠元自身は子へと職を継ぎ、世を去っていたと推測されています。

鎌倉幕府創立期に存在感を示した足立遠元と足立氏については、在地勢力としての資料や伝承が少なく、その多くが謎に包まれているのが現実です。鎌倉殿の有力御家人にもかかわらず、一族にまつわる資料が乏しいというのは東国武士団の中でも異例のことです。しかし、限られた情報の中でも、遠元については公の場での記載が多く、時の権力者たちから厚い信任を受けた人物であったことは確かだと考えられます。足立遠元は、政変が続く激動の鎌倉初期に、失脚することなく幕府の要人として天寿を全うした優れた武将であり文官であったのでしょう。

 

 

足立遠元と武蔵武士団との関係、朝廷との関係

『足立系図』によると、遠元には8男2女があったとされています。この子どもたちのうち2人の娘について見てみます。

2人のうち1人は「坂東武士の鑑」と称された武将・畠山重忠に、1人は後に執権となる北条義時の弟・時房にそれぞれ嫁いでいます。坂東武士の実力者との縁戚、鎌倉政権の要人との縁戚は、遠元の幕府内の地位を確立することに少なからず作用したでしょう。

しかし、遠元の娘たちについて調べてみると、遠元にはこの2人の他にもう1人の娘がいたことがわかります。その1人は朝廷の高官であった藤原光能(ふじわらのみつよし)に嫁ぎ、藤原知光・光俊の母となった女性です。

藤原光能は都の公卿で、後白河法皇の近臣として力を持っていた人物です。朝廷内で順調に出世した光能は、1165年(永万元年)に下野守(下野国は現在の栃木県一帯)に任ぜられます。遠元の娘がいつ光能に嫁いだのかは不明ですが、1168年(仁安3年)には2人の間に男子(知光)が誕生していることから、遠元と光能との接点は、光能の下野守任官中とも推測されます。平治の乱後、敗北を喫した源氏の一門と遠元ら御家人たちは各地に逃れます。足立郡が平氏の支配下に入ったこの時期、遠元の動向も不明となりますが、水面下で都の高官らとのパイプを構築していたのでしょうか。

ここから見えてくる遠元像は、単に東国における在地の有力武士という姿のみでなく、都の権門(※1)との強い繋がりも有する官人としての姿です。この点が武蔵国留守所総検校職(※2)であった畠山氏に率いられた武蔵武士団との大きな違いで、足立遠元という人物に迫る一つの鍵といえそうです。

都の権力者とのパイプや縁戚関係も、遠元が激動の時代を生き抜いた要因となったのでしょうか。文武に優れた稀代の武蔵武士足立遠元は、同時に人並外れた処世術の持ち主であったのかもしれません。

 

※1  権門(けんもん)・・・官位が高く、権力、権勢のある家柄、またはその家の人。

※2 留守所総検校職(るすどころそうけんぎょうしき)・・・留守所とは遙任などで在地に国司がい ない国衙のこと。こうした国衙は在庁官人が実務を代行した。留守所総検校職は在庁官人のトップとして国内の武士を統率していた。武蔵国では秩父氏がこの任に当たった。なお、留守所総検校職が置かれたのは武蔵国と大隅国のみであったといわれる。

 

 

「平治物語」にみる足立遠元

足立遠元の人物像を描くものに「平治物語」があります。平治の乱において、平安京大内裏東面の待賢門に押し寄せた平重盛の軍を、源義朝の子・義平に従い迎え撃った17騎の猛将たちの中に足立遠元がいました。この「待賢門の戦い」で平重盛軍を撃退した源義朝軍は、その勢いで平氏の拠点であった六波羅を攻めます。この激戦において、足立遠元の戦いぶりを平治物語の中に見ることができます。要約すると、おおよそ次のようなものです。

 

『六波羅攻めでは、保元の合戦でも戦功を挙げた武蔵武士の金子十郎家忠が先陣を切って戦った。しかし、激戦禍で金子家忠は矢を射つくし、弓も折れ、太刀も折れてしまった。戦いたくとも戦えずに駆け回っているうちに、同じく奮戦する足立遠元と行き会った。家忠は遠元に脇差しを貸してほしいと頼むが、遠元は脇差しを持っていなかった。そこで遠元は、家忠のためにと、前で戦っていた自分の郎党の太刀を取って家忠に与える。家忠はこれに感謝し、再び戦闘に戻っていった。

しかし、自分の太刀を取り上げられた郎党は、遠元に不満を訴え、自分が役に立たないのならばと自害しようとする。これを馬から降りて止めた遠元は、不満はもっともであること、しかし仲間を見殺しにすることはできなかったことを諭す。そして、自らを討とうと向かってきた武者を弓で射て仕留め、その武者の持っていた太刀を取って郎党に与え、再び郎党を引き連れ戦いに戻っていった。』

 

このエピソードは、戦場における足立遠元の武勇と友情の美談として平治物語に記述されています。この話が事実かどうかはわかりません。ただし、大将級ではない武士を敢えて取り上げ、物語を構成する一節の主役に据えていることからも、足立遠元という武士は、源氏の武士団の中でも突出した存在だったのではなでしょうか。

平治物語絵巻

「平治物語絵巻」三条殿夜討

(ボストン美術館蔵)

執権北条氏の支配と足立郡

鎌倉幕府第2代将軍頼家の治世になると、まだ若年であった将軍の補佐として、幕府は13人の有力者の合議制によって運営されることになり、足立遠元もその1人に任じられ、引き続き幕府の中枢を担っていきます。しかし、その後の幕府には政変が続き、遠元とともに幕政を担った人びとも徐々に姿を消していくことになります。

武蔵国比企郡に勢力を持ち、幕府の重臣であった13人の1人比企能員は、第2代将軍頼家の乳母父としても権勢を維持し、舅(しゅうと)としても頼家を支える立場にありました。そうした中、1203年(建仁3年)7月に頼家が急病に倒れます。これを契機として、幕府内は緊張に包まれ、同年9月、比企能員の台頭を恐れた北条時政の謀略により、比企一族は滅亡へと追いやられてしまいます。そして、将軍頼家は修禅寺に幽閉され、翌年7月に落命しました。

以後、北条時政は幕府政所の別当となます。さらに、娘婿である平賀朝雅が武蔵国司を継承すると武蔵国の経営への関与を強めていきます。武蔵国は留守所総検校職が国内の武士を統括しており、その任にあった畠山重忠と時政は対立していくことになります。

1205年(元久2年)6月、時政は武蔵守である平賀朝雅との不和を口実に、畠山重忠とその子重保、重秀を滅ぼしてしまいます。ここに源頼朝以来の武蔵国の運営体制は崩れ、北条氏の支配のもとに置かれることになりました。重秀は母が遠元の娘であり、遠元の孫にあたる人物でした。

北条時政は後妻である牧の方とともに、娘婿である平賀朝雅を将軍につけようと画策します。しかし、先妻との子である北条政子の同母弟である北条義時及び時房によって失脚させられ、平賀朝雅と牧氏の与党は誅殺されるに至ります。

畠山重忠の乱、そして牧氏をめぐる事件の後、北条義時は幕府の執権となり、足立遠元の娘婿である北条時房は武蔵守に就任しました。以後、鎌倉時代を通じて、幕府は執権北条氏のもとで運営され、相模国と武蔵国は北条氏一門が国司を勤めるようになります。

足立遠元の記録は、1207年(承元元年)3月を最後としており、ほどなく世を去ったものと考えられます。畠山重忠に率いられた武蔵武士団は北条氏の支配下に置かれ、足立遠元が守ってきた足立郡司の職も北条一門に移り、足立郡に土着した遠元の子孫もその支配を受けることになったと推測されます。

 

 

足立遠元の子孫と足立氏のその後

第9代執権北条貞時の時代。1285年(弘安8年)12月に鎌倉で霜月騒動が勃発します。これは、有力御家人であった安達泰盛と執権北条貞時の内管領であった平頼綱との間に起こった政変です。

この争いで安達泰盛は敗北を喫し、泰盛とともに武蔵国においても多くの御家人が命を落としました。この時、泰盛についた足立遠元の嫡系の曽孫にあたる足立左衛門尉直元も自害しており、武蔵国における足立氏の嫡流は途絶えることとなりました。

これに遡る1209年(承久3年)、遠元の孫である足立遠政(父は遠元の子・遠光)は丹波国氷上郡佐治庄の地頭職となり、佐治庄小倉に移ります。やがて同地山垣の万歳山に山垣城を築城した遠政はここを本拠地としました(現在の兵庫県丹波市青垣町一帯)。ここに丹波の名門足立氏が興り、以後12代370年にわたる繁栄の礎を築いたのです。

やがて戦国の世を迎え、1579年(天正7年)5月、織田信長の丹波攻めにあった山垣城は、羽柴秀長と明智光秀の軍勢に攻められ、激戦もむなしく落城します。ここに丹波足立氏は没落することとなりました。しかし、落ちのびた足立一族は帰農することで血脈をつなぎ、乱世が治まると佐治庄に帰還を果たします。そして、令和の今日まで足立の家名を同地で守り続けています。丹波市青垣町一帯は、まさに人口の約4割が「足立さん」なのだそうです。

では、武藏国の足立氏はどうなったのでしょう。先にも述べましたが、嫡流は霜月騒動によって途絶えています。しかし『足立系図』に記された遠元の子には、足立郡内の郷村名を名乗る人物が4名確認できます。その中に「河田谷」を号した「遠村」の名があり、これは中世の河田谷郷、現在の桶川市大字川田谷に由来する苗字であると理解されます。この他にも「淵江田」(足立区淵江)を号した「元重」、「安須吉」(上尾市畔吉)を号した「遠景」、「平柳」(川口市領家付近)を号した「遠継」などがみえます。いずれも足立郡内の居館地を名乗っていると思われます。

遠村が名乗った「河田谷」にまつわる桶川市大字川田谷には、鎌倉時代に関東における天台教学の拠点であった東叡山泉福寺があり、現在も国指定重要文化財「阿弥陀如来坐像」(鎌倉時代の1262年〈弘長2年〉作)が伝えられています。泉福寺は、鎌倉時代に「河田谷殿」の庇護を受けて信尊が中興したと伝わり、ここから『足立系図』に見える河田谷氏との関係が類推されます。

河田谷郷と足立氏の関わりについては、鎌倉の円覚寺塔頭黄梅院の文書の中にある「足立大炊助」(あだちおおいのすけ)という人物の存在から推測することができます。詳細は不明ですが、1397年(応永4年)頃に河田谷郷は足立大炊助が領有したことが分かっており、この地での足立氏の権益が継承されていた可能性が考えられます。また、戦国時代に関東管領となった上杉謙信の被官である木戸氏が河田谷氏を名乗り、河田谷氏が在地の土豪として何らかの権利をもっていたことが推測されますが、その後にこの名を資料にみることはできなくなります。

このように、関東における足立氏の足跡は不明になりますが、丹波を中心とした地域では、足立氏の後裔が存続しています。足立遠元が駆け抜けた鎌倉の乱世から実に800年。武蔵国に興った武蔵武士足立氏と足立遠元の血脈は、幾多の時代を乗り越えて今日に受け継がれているといってよいでしょう。

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