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べにばな物語

更新日 2017年7月27日(木) ページID:D000068

内容

桶川市では、ふるさと創生事業の一環として「べに花の郷 桶川市」のキャッチフレーズを掲げ、紅花をシンボルとしたまちづくりを行っています。

なぜ桶川市で“紅花”なのか。意外な取り合わせにおもわれるかもしれませんが、桶川の歴史を遡るとその理由がはっきりと見えてきます。

かつて、紅花宿といわれた街

どんなに隆盛を極めていても、時代とともに消えゆくモノがあります。桶川の「紅花」もその一つでした。江戸時代、桶川は紅花をはじめとする農作物の集散地兼宿場町として栄え、特に紅花は、幕末になると、山形の「最上紅花」に次いで全国で二番目の生産量を誇りました。

当時は、まちのいたるところで紅花畑が見られたといわれています。桶川における紅花の生産は、天明・寛政年間(1781~1801年)に江戸商人がその種子をもたらしたことから始まり、「桶川臙脂(えんじ)」の名で全国に知られるようになりました。

最上地方では7月に収穫するのに対し、気候が温暖な桶川ではひと足早い6月に収穫することができます。そのため、“早庭(場)「はやば」もの”とも呼ばれ、紅花商人に歓迎されたそうです。

世情が安定した江戸後半は、江戸や大阪の大都市だけでなく地方の町も発展し、町人を中心とした消費生活が高まりつつ桶川臙脂の生産も急速に伸びていったようです。

富と文化をもたらした紅花

当時の取り引き価格を比較してみると、米は1反あたり平均二両、紅花はその倍の4両にも達し、幕末には「最上紅花」を上回る相場で取り引きされていたといいます。

また、昔から宿場町として栄えていた桶川宿には、江戸や京都などの遠方の商人も集まるようになり、富とともに様々な情報がもたらされ、桶川の文化にも影響を与えました。

たとえば今も残る桶川祇園祭り(夏祭り)を見ると、山車の引き回しは京都から、囃子は江戸から取り入れ、桶川の人々が独自に発展させた伝統行事であることがわかります。

これだけ隆盛を誇った紅花も、明治期に入ると化学染料の導入などから次第に衰退していきます。今では、その痕跡は、紅花商人が寄進した石灯籠(寿二丁目の稲荷神社)にしか見ることができません。

しかし、意外なところから紅花が復活する道が開けました。

加納地区の加藤貴一さん(故人)は、40年以上も前から紅花を栽培していました。以前から桶川の歴史に興味を持っていた加藤さんは、いつしか紅花に魅せられ、自分で栽培するようになったそうです。

同じように、紅花に魅せられた人々がいます。「桶川ロータリークラブ」も、平成5年に山形県河北町をおとずれ、種子を譲り受け平成6年3月に川田谷の〈富士見ホタル親水公園〉で試験栽培し、夏には訪れる人々の目を楽しませてくれました。

採取した種子は、その年の「桶川グリーンフェスティバル」や「市民まつり」などの市のイベントで無料配布されました。紅花を通じて歴史と伝統を見つめ直し、現代に生かす。そんな気運から始まったのが平成8年の「第1回べに花まつり」です。

桶川市のまちづくりは、こうして市民の動きと歩調を合わせて動き始めました。江戸時代に経済的な繁栄をもたらした紅花が、百年を経た今文化的な成熟をもたらす。そんな願いを込めて、紅花を市民の花と定め、まちづくりのシンボルとしています。

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