桶川市の歴史と民俗

大地を掘(ほ)れ! -桶川のはじまり-

ふじま山遺跡 ふじま山遺跡

後谷遺跡発見の漆ぬりのくし 後谷遺跡発見の漆ぬりのくし

桶川市は、ちょうど蝶(ちょう)が羽を広げたような形をしています。 ここ桶川ではじめて人が生活をはじめたのは、旧石器時代(きゅうせっきじだい)と言われる時代のことです。

縄文時代(じょうもんじだい)になるとだんだん人口が増えてきます。 坂田(さかた)にある「ふじま山遺跡(いせき)」や上日出谷(かみひでや)にある「高井遺跡(たかいいせき)」、 川田谷(かわたや)にある「諏訪野遺跡(すわのいせき)」などからは 今から4,500年ほど前の縄文人(じょうもんじん)の大きな村が発見されています。

桶川市赤堀(あかほり)には、全国的に知られている「後谷遺跡(うしろやいせき)」というとても有名な遺跡があります。 縄文時代の終わりごろ(今から約(やく)3,500年~2,500年前)の遺跡です。 ここからは土器(どき)や石器(せっき)のほかに、木で作った弓や、縄文人が食べた木の実や動物の骨、 耳飾(みみかざ)りや漆(うるし)をぬったくしなどのアクセサリーもたくさん発見(はっけん)されました。

弥生時代(やよいじだい)から古墳時代(こふんじだい)になると人口も増え、 古墳時代には川田谷の荒川(あらかわ)の近くに「熊野神社古墳(くまのじんじゃこふん)」が造られます。 古墳(こふん)は昔のえらい人のお墓(はか)です。このころから、 桶川にはとても強い力をもった支配者(しはいしゃ)がいたことがわかります。

歴史の表舞台へ! -桶川のなりたち-

泉福寺の木造阿弥陀如来坐像 泉福寺の木造阿弥陀如来坐像

桶川市川田谷に泉福寺(せんぷくじ)というお寺があります。このお寺は、 平安時代(へいあんじだい)の天長(てんちょう)6年(829年)に淳和天皇(じゅんなてんのう)と おっしゃる当時の天皇の願(ねが)いにより建(た)てられた、とても古く格式(かくしき)の高いお寺です。

このお寺には「木造阿弥陀如来坐像(もくぞうあみだにょらいざぞう)」という阿弥陀様(あみださま)がいらっしゃいます。 この仏(ほとけ)様は鎌倉時代(かまくらじだい)につくられ、泉福寺の大切な仏様として守られてきました。 現在は「重要文化財(じゅうようぶんかざい)」という国の宝物にもえらばれています。

室町時代(むろまちじだい)という時代になると、桶川にも「武士(ぶし)」の館(やかた)がつくられるようになります。 加納の加納城(かのうじょう)や、川田谷の城山公園(しろやまこうえん)にある三ツ木城(みつぎじょう)などです。 現在でもその跡(あと)の一部を見ることができます。

やがて戦国時代(せんごくじだい)となり、日本は戦(いくさ)の世(よ)となります。 こうした戦(たたか)いの時代を勝ちぬき天下統一(てんかとういつ)をはたしたのが徳川家康(とくがわいえやす)です。 そして家康は江戸(えど)(現在の東京)に幕府(ばくふ)を作ります。これが徳川幕府(とくがわばくふ)です。 徳川家康の家来(けらい)に牧野康成(まきのやすしげ)という人がいました。 彼は家康から石戸領(いしどりょう)という領地(りょうち)(現在の上尾、桶川、北本、鴻巣(こうのす)にわたるとても広い土地)をもらいます。 そして、この牧野康成は川田谷に陣屋(じんや)(大きな役所)をつくり、この地を守ったのです。 この陣屋があった場所は、現在は圏央道(けんおうどう)の桶川・北本インターとなってしまいました。

宿場のにぎわい -べに花が支えた桶川の発展-

江戸時代、徳川幕府は全国を効率(こうりつ)よく治(おさ)めるために東海道(とうかいどう)、 中山道(なかせんどう)、甲州街道(こうしゅうかいどう)、日光街道(にっこうかいどう)、 奥州街道(おうしゅうかいどう)という5つの大きな道を整備(せいび)しました。 道の要所に宿駅(しゅくえき)(宿場(しゅくば))をつくり、大名(だいみょう)や旅人(たびびと)が不便(ふべん)なく旅をできるようにしました。

江戸時代の宿屋の建物(小林家住宅) 江戸時代の宿屋の建物(小林家住宅(こばやしけじゅうたく))

この5つの道のうち、桶川には中山道が通りました。そして、「桶川宿(おけがわしゅく)」という宿場ができました。 中山道の出発点(しゅっぱつてん)は江戸の日本橋(にほんばし)で、桶川宿は江戸から6番目の宿場となりました。 江戸からの距離(きょり)は約40kmです。宿場町(しゅくばまち)となった桶川は、たくさんの人が行(ゆ)き来(き)して、 人口も増え、しだいに発展(はってん)していきます。多いときは、桶川宿の町の中には36軒(けん)もの宿屋(やどや)があり、多く旅人でにぎわいました。 桶川宿が発展したもう一つの理由は、たくさんの農産物(のうさんぶつ)の取(と)り引(ひ)きをした場所でもあったからです。 こうした農産物などの取り引きをとおして、経済(けいざい)が活発(かっぱつ)になり、さらに多くの人が集まります。

桶川の重要(じゅうよう)な農産物の中に、紅花(べにばな)がありました。 紅花は着物などを染(そ)めたりする染物(そめもの)や口紅(くちべに)などの材料(ざいりょう)として使われ、 たいへん高価(こうか)なものでした。桶川の紅花はとても質(しつ)がよく「桶川臙脂(おけがわえんじ)」というブランド名がつけられるほど有名になり、 江戸や京都(きょうと)の染物屋(そめものや)が桶川まで買いにきました。 こうして、桶川の紅花の生産量(せいさんりょう)は日本全国で第2位にまでなりました。 こうした歴史が、現在の桶川市のキャッチフレーズになっている「べに花(はな)の郷(さと)・桶川」の由来(ゆらい)です。

紅花商人寄進の石燈篭 紅花商人寄進(べにばなしょうにんきしん)の石燈篭(いしどうろう)

紅花の取り引きで、たくさんの財産(ざいさん)を手に入れた桶川の紅花商人(べにばなしょうにん)たちは、 その繁栄(はんえい)に感謝(かんしゃ)してふたつの石の燈篭(とうろう)を建(た)てました。 これは今も桶川稲荷神社(おけがわいなりじんじゃ)の境内(けいだい)に残っています。 また、宿場は文化の交流(こうりゅう)の場ともなりました。桶川祇園祭(おけがわぎおんまつり)などは、 京都(きょうと)の祇園祭(ぎおんまつり)と、江戸から伝わった江戸囃子(えどばやし)が融合(ゆうごう)し、はじまったお祭りです。 このように、宿場町(しゅくばまち)として、商業(しょうぎょう)の街(まち)として、 文化の交流の場所として、大いに発展して賑(にぎ)わった桶川宿は、現代の桶川市の基礎(きそ)となったのです。

人々の芸と技 -大切に伝えられる芸能-

小針領家のささら獅子舞 小針領家(こばりりょうけ)のささら獅子舞(ししまい)

下日出谷の餅つき踊り 下日出谷の餅(もち)つき踊(おど)り

桶川には昔から受(う)け継(つ)がれてきた多くの芸能(げいのう)が今も伝えられています。豊作(ほうさく)を願(ねが)い、収穫(しゅうかく)に感謝(かんしゃ)して演(えん)じられてきたこれらの芸能は、桶川市の大切な宝(たから)です。 桶川市は、埼玉県内でも昔からの芸能がたくさん残(のこ)っているところです。 現在でも「ささら獅子舞(ししまい)」や「万作踊(まんさくおど)り」、「餅(もち)つき踊(おど)り」や「お囃子(はやし)」などが市内のあちらこちらで行われており、こうした芸能の団体(だんたい)は19団体もあります。

学問の道を切り開け! -辻村みちよ博士の研究-

日本人の国民的飲料(こくみんてきいんりょう)といえば緑茶(りょくちゃ)(お茶)。 健康(けんこう)によく、ビタミンCやカテキンがたくさん含(ふく)まれていることは、多くの人が知っていますね。 これらの成分(せいぶん)がお茶に含まれるということを発見したのが、 桶川出身で日本人の女性で初めて農学博士(のうがくはかせ)となった辻村(つじむら)みちよさんです。 辻村みちよさんは明治21年に桶川宿で産(う)まれました。

この当時(とうじ)は、まだまだ女性が学問(がくもん)を続けて学者になることがむずかしかった時代でしたが、 辻村みちよさんはとても苦労(くろう)をしながらも、あきらめずに勉強しました。

こうして、研究(けんきゅう)を続けた辻村みちよさんは、緑茶(お茶)に関する研究で、 お茶には豊富(ほうふ)なビタミンCが含まれていること、さらにカテキンが含まれていることを発見します。 これは画期的(かっきてき)な発見でした。このことが高く評価(ひょうか)され、昭和7年に女性では日本で初の農学博士(のうがくはかせ)となったのです。

高い理想(りそう)と信念(しんねん)を持って学問の道を切り開き、81歳で亡くなるまで研究を続け、 多くの学生(がくせい)たちに夢と希望を与えた辻村みちよ博士は、これからも長く語(かた)り継(つ)いでゆくべき桶川の大先輩(だいせんぱい)です。

辻村みちよ博士 辻村みちよ博士

辻村みちよ博士 辻村みちよ博士